能の発表会によせて

大学の能楽サークルの発表会が日曜日に迫ってきた。水曜・土曜と稽古があるのだが、土曜日はバイトがあるため、昨日が会前に私が稽古に行く最後の日となった。
ただ私は就活のために、最終学年ではあるが今回は出演しないと決めていたので、あくまで傍観者である。
状況説明はこれくらいにして、本題に入る。この夏の発表会は多数の大学が集まっているのだが、例年打ち上げで各大学が「芸」をするという伝統がある。昼間にやっている発表会はこの打ち上げのための前座であるとも言われているほどである。
我が大学は伝統的に劇を出し物としてきた。そして私は、学部2回生の頃から毎年劇の脚本や演出をしてきた。なので我がサークルの「芸」は私が担ってきた、との自負がある。事実、毎年かなりのウケをとってきたと思う。無論出演者の方々の協力あってこその成功ではあったが。
しかし今回は、発表会に出ないと私は決めていたこともあり、「芸」の制作には関わらないことにした。なぜなら、長く私が表舞台(裏舞台か?)に立ちすぎたせいで、後が育たないという弊害を私自身が感じていたからだ。加えて、私の関わらない「芸」というものを最後に一度見てみたかったからというのもあった。そういうわけで昨年から脚本は後輩に任せていたのだが、昨年は結局私がかなり書き直してしまった。
私が後輩に任せようと思ったのに、書き直してしまったのには理由がある。「勢い」や「流れ」というのが足りないのだ。劇ではあるが宴会芸である以上、脚本の論理性・整合性は二の次であり、最も重要なのは酒を飲んでいる相手にどれだけインパクトを与えられるかということである。そしてそれを立て続けに放つテンポの良さもまた重要なのだ。
私が考える「勢い」と「流れ」を感じ取ってもらいたいと考えて、私が前面に出るような脚本に変えたのである。(もちろん目立ちたかったのも大きな理由である。)
で、今年はもう関わるまいと思っていたのだが、昨日稽古に行ったら脚本草案が出来上がったという。そう言われれば見ずばなるまい。案の定草案には「勢い」も「流れ」も不十分であり、私にとってはとても看過できないものであった。思わず修正を入れようと、草案作成者にどういう意図で書いたのか尋ねると、次のような言葉が返ってきた。

○○さん(私のこと)のいなかった頃の「芸」というコンセプトです

これは私にとってかなりショックであった。私の趣向と彼の趣向にかなり違いがあるのは分かっていたが、方向性までもが全く違ったとは。ならばこれまで私が教えてこようとしてきたことは無駄だったのか。
しかししばらくしてから、むしろ私というキャラへの依存からの脱却を目指しているのだな、と考え直した。私を必要としないということは、彼らだけでもやっていけるということだ。これは私が望んでいたことの一つだ。彼らだけの「芸」というのを見てみたくなった。(正直言えば、ちょい役ででも役を用意してくれないかと少し期待してたのだが)
それともう一つ心残りがある。入学以前にどうだったのかは知らないが、少なくとも私が「芸」に関わるようになってから、一部の人によって脚本が作られ、他のメンバーはそれに沿って演技をするだけと言う形になってしまった。これは私が招いた失態である。
しかし本来はそうではない。皆が「芸」の脚本段階から関わって、全員で一つのものを作り上げてこそではないか。能で要求されていることが「芸」で要求されないわけがない。その反省から、私は今回、一人の女性部員に脚本を考えてくるように言っておいた。この種がどう芽を出すのか、楽しみである。


かなりの長文になってしまった…。