父の死によせて

もう先月のことになりますが、父が亡くなりました。昨日、四十九日法要を無事終えることができました。


父のことを思い出そうとすると、なぜか昔のことが思い出されます。保育園の頃、改築前のぼろい風呂場で、父に抱かれながら髪を洗ってもらったこと。自営業をしていた父の外回りについて行って、得意先でふざけて後でこっぴどく叱られたこと。笠置の木津川渓流で、カヌーで遊んだこと。バルサンを炊いている家に入れないので、向かいの印刷屋に落ちていた紙切れで籤を作って時間をつぶしたこと。死ぬ前には忘れていたのに、不思議なものです。


カメラ屋を営んでいた父は、家族の写真を残すことには、殊の外熱心でした。運動会や発表会の時には、プロ仕様の機材を持ち込んで、最も輝く瞬間を撮影。その出来はもちろん完璧。記念写真の数にかけては、他の誰にも負けないでしょうね。
大きくなるにつれて、私が撮られることを嫌がっていったので、段々と写真も減ってはいきましたが、能楽サークルの発表会の時だけは、お願いして撮りに来てもらっていました。暗い能楽堂の中での撮影は、相当の技術が要求されます。しかも私は動きの早い、激しい舞を好んで選んでいたので、その難しさたるや至極。しかし父は難なく撮ってしまう。私がシテを演じた能「田村」の写真は、一生の思い出です。


葬儀は近親者だけで行う予定だったのですが、誰にも言わないのに、どんどん集まってきて、通夜の際は会場に入りきれないくらいに。父の人徳が、そうさせたのかと思うと、胸が熱くなりました。商売はそれほど上手くありませんでしたが、人を楽しませることにかけては、一流の人間だったと思います。
葬儀・法要で、印象的だったのは、檀家になっているお寺の住職*1が、今までに見たことのないような、感傷的な感じだったこと。住職は父の得意先としても親交が深かったので、檀家の一人としてより、友人として悲しんでくれたのでしょうか。その住職が、法要後の説話で父の言葉を紹介していました。「写真はいくらでも修正できるようになったが、ピンぼけだけは直せない。ピントだけは注意してや」・・・父らしい言葉でした。


父は死の直前まで、店を続けることにこだわっていました。一代で築き上げた自分の店、それを30年以上も続けてきた父を、私は誇りに思います。そして、闘病中、父の願いを叶え続けてくれた母と妹にも、感謝したいです。
父よ、安らかにお眠りください。

*1:今は家督を譲ったのかもしれませんが、ここでは住職としておきます